トップ>スポーツ医科学レポートトップ

スポーツ医科学レポート

スポーツ医科学の特殊性
ースポーツ医科学21世紀への期待ー

渡辺郁雄
([財]岐阜県体育協会スポーツ医科学委員長・朝日大学内科学講座)


 近年のスポーツ医科学の発展には目を見張るものがあります。競技力向上に直接関連がある部分のみに的をしぼっても、身体運動学、臨床医学、心理学、栄養学など、あらゆる面において過去とは異なった考え方や実践方法が一般化されつつあります。とくにPNFの理論にみられる身体運動学と臨床医学の知見の融合、整形外科的運動器障害と不適切なフォームとの関連の研究、メディカルチェックの方法論的改善による事故防止、ドーピング違反の増加とその対策、メンタルトレーニングのスポーツ現場への導入、スポーツ選手専用の栄養管理の普及などは、20世紀の終盤に急速に重要視され一般化されるようになりました。
 しかしながら、科学としてのスポーツ医科学が他の領域と比較して同様に、あるいはそれ以上に理論的に確立したかというといささか疑問が残ります。他の科学の領域においてみられた理論と実験的手法の飛躍的な発展と比較すると、スポーツ医科学の進歩にはまだまだ未解決の課題がいかに多いかということに気付きます。その理由は種々考えられますが、スポーツを科学としてとらえたり、あるいはスポーツに科学性を取り入れるという考え方自体が歴史的に古くないこともその一因と思われます。 
 科学には客観性、普遍性、再現性などを含む論理的合理性が不可欠です。ところが、スポーツ医科学を競技力向上の面から考えると、この領域に上述の特性を求めることは極めて困難な作業となります。上述の特性は多数の例において、統計的有意性をもって、何度繰り返しても同じ結果が得られなければなりません。つまり普遍的共通性を証明することこそ科学が科学として評価される前提となります。
 ところが、競技スポーツに求められることは普遍的共通性ではなく、いかにして特殊な、優れた競技力を発揮させるかというところにあります。競技者の目的は普遍性ではなく極限の特殊性を追及することにあるという根本的特殊状況があります。そこに医科学とは関係のない危ない民間施療などがつけいる余地も生じます。
 本県でも最近話題になっている高地トレーニングを例にあげるならば、実施するのに最適な高度は多 くの文献が
1,8002,400メートルであるとしています。Baumann,Iら、1994)。これ以上の高所では成果をあげられないばかりか、障害をきたす危険があるとの指摘もあります。ところがシドニーオリンピックの女子マラソンで優勝した高橋尚子選手は一時3,500メートルの高所でトレーニングを行ない、その結果世界一の座の栄光を獲得しました。

高橋選手の指導者である小出監督はこれについて“自分は科学者のいうことは信用しない。個々の選手はやってみなければ何が最も適しているかは分からない”という意味のことを広言して憚りません。
 近年医学の傾城ではEBMevidence based medicineといって実績による裏づけが確立された理論に基づいた診療を行うことの重要性が強調されております。つまり治療行為は常に科学的根拠、すなわち上述の客観性、普遍性、再現性などが確立された選択肢を選ぶべきであるということになります。トレーニングを科学的に行うという意味を単純に受け止めるならば、これもEBMに基づいた方法で行わなければなりません。 
 このことを高橋選手の場合にあてはめると、小出監督は多くの科学者が多数例を検討して引き出した“科学的結論”を無視したトレーニングを取り入れた結果、世界の項点を極めたことになります。 
 ここで私たちに必要なことは、科学者達と小出監督のいずれが正しいかを論ずることではなく、スポーツ医科学とスポーツ現場の関連における特殊性を理解するところにあると思います。スポーツ医科学は既成の科学という言葉で一つの括弧で括りきれない領域があります。競技成蹟が既存のスポーツ医科学だけで説明し切れるものであるならば、画一したトレーニングメニューと栄養プログラムを与えるだけで、95の選手がほぼ同様の好成蹟をあげなければなりません。現実にはそのようなことはありません。そこにはモチベーションを含む心理的側面があり、遺伝あるいは素因と称される個の要因があるからです。前者はここにスポーツ根性論が発生する余地を残し、後者は近年飛躍的発展を遂げたヒトゲノムの解析がスポーツ医科学へいかに導入されるかという興味に結びつきます。ヒトゲノムがさらに解明されれば、例えば生まれた直後の子供について持久性スポーツの素質の有無を知るくらいのことは極めて簡単なこととなるでしょう。
 21世紀を迎えたことは単に歴史が時を積み重ねてゆく一過程に過ぎませんが、これからのスポーツ医科学が競技力の向上に頁献するためには、もはや一般的運動生理学や多数の競技者全体を検討した結果を論ずるだけではなく、優れた個がもつ特殊性を、それがどのような理由と経過によって生じたかを科学的に解明することが重要になるのではないでしょうか?