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スポーツ医科学レポート NO.12

3.釜山アジア大会(2002)を振り返って

    白木 明
(白木整形外科)

 
 14回アジア競技大会は2002年9月29日から10月14日まで韓国、釜山市で開催されました。私は日本代表選手団のメディカルスタッフとして参加することができましたので、本部ドクターの立場から大会を振り返ってみたいと思います。アテネオリンピックを睨んだ日本選手団の総勢が海外派遣では史上最多の985人(役員など含む)であったことや、北朝鮮問題で小泉首相の訪朝直後であった事などから非常に注目された大会であったと言えます。そもそもアジア競技大会誕生の動きは1948年のロンドンオリンピックにアジアから初参加した13ヶ国に、インドが呼びかけ、アジア競技連盟(AGF)を結成、第1回の開催地をニューデリーと決めた事に始まります。AGFは1982年にアジアオリンピック評議会(Olympic Council of Asia:OCA)に継承され大会を主催し、第1回大会だけはインドの都合で予定より1年遅れて開かれ、第2回マニラ大会からは順調に4年ごとに開催され、日本は第1回大会から連続参加しています。第3回東京大会は、6年後のオリンピック誘致を強く意識し、多数のIOC委員も来日し視察するなど、東京大会は戦後の復興途上にあった日本が始めて開いた国際的なビッグイベントでありました。
 アジアでのスポーツの母体は第1次大戦以前には、極東選手権大会や西アジア競技大会でしたが、第2次大戦後のアジア競技大会は、植民地から独立した喜びが大きなインパクトになっている点が特徴といえます。OCA加盟国も第9回ニューデリー大会で初めて30を超え、現在43NOC(国・地域)が加盟していますが、国際政治の影響は大きく、イスラエルはOCA設立時に除外され今も未加盟、イラクはクウェート侵攻を理由に加盟資格を停止されています。そういう意味では今回の釜山大会の開会式で、韓国と北朝鮮の選手団が統一旗を掲げて合同入場行進した光景は感動的でありました。
 14回2002釜山大会は全体的に非常にハイレベルな大会でありました。大会新記録が242も更新され、その多くが中国によるもので、2008年北京オリンピックに向けた強化が予想以上のペースで進んでいると言えます。中国は金メダルも前回98年バンコク大会の129を上回る150を獲得し、地元の韓国についても、金96、銀80、銅84と、日本は大きく水を開けられ(金44、銀74、銅72)、メダル倍増計画を唱えるJOC選手強化本部のもくろみは大きく外れる結果となりました
 さて、メディカルスタッフチームはJOCの標榜する少数精鋭主義により計18名で編成されました(内科4名、整形外科9名、形成外科1名、神経科1名、トレーナー3名)。各ドクターは各自が所属する競技を中心に、複数競技をカバーする体制を整え、選手村の医務室を拠点に医療活動を行うこととなりました。もちろん大量の薬剤、医療材料、治療器具が日本から運び込まれ、メディカルルームが運営されましたが、私はバレーボール、野球、ゴルフの試合会場へも赴き、チームスタッフとして活動する要請があり、選手村の医務室に腰を落ち着けていることはできませんでした。特に国際バレーボール連盟(FIVB)のメディカルへの要望は厳しく、全試合、ナショナルチームドクターのベンチ入りが義務づけられていて、また試合前には選手に使用した薬剤の報告書類提出の義務もありますので、2週間の間に男女約20試合に付き添うといったハードスケジュールでありました。選手の体調は事前に国立スポーツ科学センターから情報が得られていますが、急な発熱や、下痢など、また疲労性の腰痛や膝関節痛の悪化などめまぐるしくあり、JOCとは別に救急ケースを持参し駆使しました。(アルツ50本入り)
 私はFIVBの公認ドクターとして、世界選手権(94‘ブラジル)、プレオリンピック(95’アトランタ)、ユニバシアード(95‘福岡)、アジア選手権(01’釜山)など幾つか国際大会を経験してきましたが、やはりチームの一員として結果が良いと疲れも吹き飛びます。今大会ではビーチバレーの男子が金メダル(始めてメインポールに揚がる日の丸と君が代を体験しました)、女子は銅メダルでしたし、インドアでは男女とも銅メダルでした。特に中国を大逆転した男子インドアバレーについては、松永怜一総監督から「復活が見えた」とお褒めの言葉を頂き感動しました。

 「釜山からアテネへ」を合言葉に戦った日本選手団でしたが、全体的な結果はメダリストがのべ190人に留まり、JOCは今後、選手団編成をより絞り込む方針を明らかにしています。メディカルスタッフチームも、それに伴った方針で編成されることが推察され、現地ではより有機的な活動が要求されることになると考えられます。
最後になりますが、国際試合とはいえ2週間も診療所を開け、貴重な経験をさせていただけたのは、患者さん、家族、職員の理解はもちろん、岐阜大学整形外科の清水克時教授はじめ医局員、同門の方々の御協力のおかげと深く感謝しているしだいであります。

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